昭和20年、終戦へ向かう日本では、政治、外交、報道、世論が複雑に絡み合いながら、歴史の出口を探していました。ポツダム宣言をめぐる「黙殺」という言葉は、国内外へ伝わる過程で意味を変え、やがて多くの人命が失われる歴史の流れと結びついていきます。けれど、ここで誰か一人を悪者にしても、同じ悲劇を防ぐ知恵にはなりません。限られた情報のなかで何を選ぶのか。熱狂を止める言葉を持てるのか。そして、言葉の先にある出口まで考えられるのか。鈴木貫太郎と終戦前夜の歴史を通して、後世へ伝えるべき「問い」を考えます。

終戦前夜私たちは何を問うべきだったのか

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昭和二十年六月二十三日、沖縄での組織的戦闘が終結しました。
当時の内閣総理大臣は、鈴木貫太郎です。

日本の敗色はすでに濃く、国内の都市は空襲によって焼かれ、多くの人々が命を失っていました。
食糧も物資も不足し、このまま戦争を続ければ、国土も国民生活もさらに深く傷つくことは明らかでした。

そのなかで鈴木貫太郎内閣は、表向きには戦争継続の姿勢を保ちながら、水面下では和平の道を探っていました。

その一つが、元首相の近衛文麿をソ連へ特使として派遣し、日ソ中立条約を結んでいたソ連を仲介者として和平交渉を進めようとする構想でした。

この選択について、後世の私たちはしばしば言います。
「ソ連を頼ろうとしたのは、判断の誤りではなかったか」と。

たしかに、ソ連はその後、日ソ中立条約を破って日本に参戦しています。
満州や樺太では多数の犠牲者が生まれ、多くの日本人がシベリアへ抑留されました。
そうした結末を知る私たちには、ソ連に仲介を求めた判断が愚かに見えるかもしれません。

しかし歴史を見るとき、私たちはひとつの「問い」を忘れてはならないと思うのです。

「その時代を生きた人々は、
 後世の私たちと同じ情報を持っていたのか」

未来の結果を知る者が、結果を知らなかった過去の人々を裁くことは簡単です。
けれど歴史から学ぶということは、過去の人物に点数をつけることではありません。
限られた情報のなかで、その人たちが、何を守ろうとし、どのような出口を探していたのかを考えることが大事だと思います。

昭和20年7月17日、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンが、ベルリン郊外のポツダムに集まりました。
いわゆる「ポツダム会談」です。

この会談のさなかに、トルーマンのもとに、ニューメキシコ州で行われた原子爆弾実験の成功が伝えられました。
この新兵器の存在は、連合国側の戦略を大きく変えました。

それまでのアメリカは、日本を降伏へ追い込むため、ソ連の対日参戦を必要としていました。
しかし原爆実験の成功によって、アメリカにとってソ連参戦の必要性は、それまでよりも大きく低下しました。

結果、7月26日に発表されたポツダム宣言に、ソ連の名はありませんでした。
このことは、スターリンにとって重大でした。
対日戦に参加できなければ、ソ連は戦後の東アジア秩序において十分な発言力を得られません。
領土的な利益も、共産圏拡大の機会も失われます。

それだけではありません。
対日戦への参加を逃せば、スターリンは戦後秩序の形成において主導権を失い、ソ連国内に対しても外交上の成果を示すことができなくなります。

そこでスターリンは、ヨーロッパ方面に展開していた大兵力を極東へ移動させました。
そして、8月9日、日ソ中立条約を破って対日参戦するのです。

つまり、もし原爆実験が成功していなければ、ポツダム宣言の内容や、ソ連の立場は違っていたかもしれないのです。
そしてもし、ソ連が正式な仲介者となっていれば、近衛文麿の派遣構想も、まったく意味のないものではなかったかもしれないのです。

もちろん、これは歴史の仮定です。
けれど、この仮定から私たちが受け取るべきものは、「誰の判断が正しかったか」という単純な採点ではありません。

限られた情報のなかで、最悪の出口を避けるために、どれだけの選択肢を持てるか。

それこそが、後世の我々が学ぶべき「問い」ではないかと思うのです。

ポツダム宣言をめぐっては、さらに重要な問題があります。
宣言の草案には、日本の天皇制を一定の形で存続させる趣旨が盛り込まれていたとされています。
日本政府にとって、天皇の地位が守られるかどうかは、単なる政治制度の問題ではありません。
天皇の存在は、国家の秩序、軍の統制、国民の精神的な結びに深く関わっていました。
もし天皇の地位が明確に保障されていれば、日本政府はポツダム宣言をより早く受け入れることができた可能性があるのです。
しかし最終的な宣言では、その点が曖昧なままにされました。

ここで私たちは、誰か一人の悪意だけで歴史を説明するのではなく、別の問いを持つ必要があります。

相手が受け入れられる条件を知りながら、それをあえて曖昧にすることは、
和平を近づけるのか、それとも戦争を長引かせるのか
という問いです。

和平とは、相手を完全に屈服させることではありません。
戦いを終わらせるために、双方が何を残し、何を譲るかを見つけることです。
出口設計のない正義は、時としてさらなる犠牲を生むからです。

7月26日、ポツダム宣言が発せられました。
鈴木貫太郎首相は、受諾も拒否も表明せず、宣言の存在を「論評なし」で、ただちに公表しました。

日本国内では、和平を求める動きと、戦争継続を主張する勢力が激しくせめぎ合っていました。
首相が不用意な発言をすれば、和平への道そのものが閉ざされかねません。
鈴木貫太郎は、極めて狭い道を歩いていたのです。

ところがこのとき、日本の新聞各紙は、政府の慎重な姿勢を大きく踏み越えました。
紙面には、
「首相、ポツダム宣言黙殺」
「笑止、対日降伏条件」
「聖戦飽くまで完遂」
といった、勇ましい見出しが大書して並びました。
政府が正式に決定していない日本の態度を、新聞が先に決めてしまったのです。

その後、強硬な世論に押される形で開かれた記者会見で、鈴木首相は情報局の用意した文章を読み上げました。
内容は、現段階では「黙殺」せざるをえない、というものでした。
理由は、ポツタム宣言に天皇の地位の保全が描かれていなかったからです。

この「黙殺」という言葉は、国内では勇ましい見出しとして切り取られ、対外的には「全面的に無視する」、さらには「拒否する」という意味合いで伝えられていきました。

日本政府の内部には、なお和平を探る意思があったのに、日本のメディアは、世界に向けて
「日本はポツダム宣言を拒否し、徹底抗戦を選んだ」
という報道を行ったのです。

ここで大切なことは、新聞社をただ断罪することではありません。
私たちが問うべきなのは、もっと根本的なことです。

言葉は、誰のものなのか。

政府の言葉なのか。
新聞社の言葉なのか。
国民の感情なのか。
それとも、戦地に送られる人々の命なのか。

「黙殺」という、わずか二文字の言葉です。
ですが、その二文字が海を越え、別の言葉に翻訳され、外交上の意思として受け止められました。
そしてその言葉には、何十万、何百万という人の命が結びついていたのです。

私は、報道とは、出来事を派手に伝えることではないと思っています。
言葉の向こうに、どのような出口があるのかを考える仕事だと思います。
あたりまえのことですが、読者を興奮させることと、社会を良い方向へ導くことは、同じではありません。

勇ましい言葉は、ときに拍手を集めます。
しかし、その言葉によって、誰が戦場へ行くのでしょうか。
誰の家が焼かれ、誰の子が帰らぬ人となるのでしょうか。
その出口まで考えない言葉は、無責任な熱狂でしかないのです。

ここに、終戦前夜の歴史が後世へ投げかける、最初の問いがあります。

私たちは、言葉を発するとき、その言葉が最後にどこへ届くのかを考えているだろうか。

ポツダム宣言を「日本が拒否した」と受け止めたアメリカでは、原子爆弾の使用をめぐる議論が進みました。
当時のアメリカ国内には、戦争の長期化を望まない空気が広がっていました。
当然です。
戦費は膨大となり、国家財政にも重い負担がのしかかっていました。
多くの米国民が、兵として命を失っていたのです。
このうえ日本本土への上陸作戦を行えば、さらに大きな犠牲が出るとも予想されていました。

そのなかで原爆は、「戦争を早く終わらせ、アメリカ兵の犠牲を減らす手段」として説明されました。
しかし、市街地に対する原爆投下が、民間人を大量に殺傷することは明らかです。
ですから、アメリカ国内にも、実戦使用に反対する科学者、軍人、政治家がいました。
後に大統領となるアイゼンハワーも、戦後の回想において、原爆を使用しなくても日本はすでに敗北に近づいていたとの見解を述べています。

つまり、原爆投下は最初から避けられない運命だったわけではない。
複数の道があり、複数の意見があり、そのなかからひとつの道が選ばれたのです。

昭和20年8月6日、広島に原爆が投下されました。
8月9日には長崎にも投下されました。

そして同じく9日に、ソ連が対日参戦しています。

広島、長崎、満州、樺太、シベリア抑留。

それぞれの悲劇には、それぞれ異なる原因があります。
ですから、原爆投下の責任を、日本の新聞報道だけに帰すことはできません。
投下を決断したのはアメリカ政府であり、民間人を大量に巻き込む兵器を使用した責任は、まずその決断を行った側にあります。

しかし同時に、日本政府の外交判断の遅れ、メディアの強硬論と過熱、国民世論の熱狂も、終戦を遅らせた要素として検証されなければなりません。

歴史の悲劇は、一人の悪人によって起こるのではありません。
多くの人が少しずつ判断を誤り、少しずつ責任を他者へ預けた結果として、取り返しのつかない出口に至ります。

私たちは、犯人探しだけで終わってはならないのです。
本当に問うべきは、

どの時点なら別の選択ができたのだろうか。
我々は熱狂を止める言葉を持てたのだろうか。
我々は相手を記号ではなく人間として見ることができたのだろうか。

などにあると思うのです。

戦時中の報道機関には、さまざまな制約がありました。
検閲もあり、軍や政府からの圧力もありました。
一方で、新聞社自身が販売部数を伸ばすため、読者の熱狂に迎合し、勇ましい論調を競った面もありました。

権力に強制された部分と、自ら進んで熱狂を作った部分。
その両方を見なければ、歴史の実像には近づけません。

よく戦時中の日本は、言論の自由がまったくなかったかのように語られます。
しかし自由とは、「何を言ってもよい」というだけのものではありません。
自由には、言葉の結果を引き受ける責任が伴います。

メディアが大きな影響力を持つのなら、その影響力がもたらす結果についても、メディアは責任を持つ必要があります。
マスメディアは「第四の権力」と呼ばれますが、そうであれば、政治権力と同じように、その判断は後世の検証に耐えなければならないはずだからです。

誤った報道があったなら、なぜ誤ったのか。
誰が判断し、どのような空気がそれを支えたのか。
訂正や検証は行われたのか。
同じ失敗を避ける仕組みはつくられたのか。

問うべきは、処罰だけではありません。
失敗を、次の世代が使える知恵に変えたかどうかです。

これは、当時の新聞社だけの問題ではありません。
いまを生きる私たち一人ひとりの問題でもあります。

自分に都合のよい情報だけを信じていないか。
勇ましい言葉に心を奪われていないか。
嫌いな相手を、人間ではなく記号にしていないか。
自分の正義が、最後に誰を傷つけるのかを考えているか。

メディアは社会を映す鏡です。
報道機関だけを批判して、読者である私たちが無関係な立場に立つことはできません。
新聞が勇ましい見出しを掲げた背景には、それを求め、喜び、支持した人々の存在もあったからです。

社会の熱狂は、送り手と受け手のRelationのなかで育ちます。
そうであれば、メディアの責任を考えることは、情報を受け取る私たちの責任をも考えることでもあるのだと思います。

広島と長崎への原爆投下、そしてソ連の参戦を受けて、鈴木貫太郎総理は終戦を急ぎました。
そして8月9日の夜、緊急の閣議が開かれました。
ポツダム宣言を受諾するかどうかをめぐり、閣僚の意見は二つに割れ、結論が出ませんでした。

そこで鈴木貫太郎は、御前会議において天皇の判断を仰ぐ道を選びました。
本来、政治上の意思決定は内閣が行うものです。
天皇に最終判断を委ねることは、内閣が自らの責任を放棄したに等しい。
ですからこれは、本来あってはならないことです。

鈴木貫太郎首相自身も、そのことを十分に承知していたはずです。
それでも彼は、御前会議を開きました。
なぜか。
これ以上、国民の命を失わせないためです。
政治制度上の正しさを守ることよりも、目の前の命を守る出口を選んだのです。

この決断を、ただ美談として語るだけでは足りません。
ここにも、後世へ残すべき問いがあります。

制度が結論を出せなくなったとき、誰が最後の責任を引き受けるのか。
自分の名誉や立場を失ってでも、悲劇を止める決断ができるのか。

8月14日の御前会議で、ポツダム宣言の受諾が決定されました。
8月15日正午、玉音放送が流され、日本国民に終戦が告げられました。

その日の早朝、鈴木貫太郎首相の私邸は、終戦に反対する勢力に襲撃され、焼き払われています。
鈴木夫妻は警護官によって脱出しましたが、家財も資料も全部、炎に包まれました。

そして鈴木貫太郎首相は、8月15日に内閣を総辞職しました。
鈴木貫太郎首相は、降伏文書の調印まで政権を担う道もあったはずです。
それでも彼は辞職しました。
理由は、御前会議で天皇の聖断を仰いだことの責任を、自ら負ったからだと伝えられています。
彼は、自分の判断によって終戦を実現し、その判断によって生じた政治上の責任も、立派に引き受けたのです。

ここで私たちは、「責任」という言葉の意味を考えさせられます。
責任とは、失敗した者を罰することだけではありません。
責任とは、最後の結果から逃げないことだからです。
自分の判断によって起きたことを、誰かのせいにせず、自分のものとして引き受けることだからです。

鈴木貫太郎は、生粋の海軍軍人です。
日清・日露の激しい戦いを軍人として生き抜き、二二六事件では銃弾を受けて、一度は心停止に至りながらも生還しています。
その人が八十歳近くになって総理大臣となり、わずか四か月の在任期間で、日本を終戦へ導きました。

彼は声高に平和を語った政治家ではありません。
主戦論が渦巻くなかで、表立って敵をつくらず、密かに和平の道を探り続けた人です。
そして最後には、自分の名誉も地位も投げ出して、戦争を終わらせた人です。

昭和23年4月17日、鈴木貫太郎は80歳で亡くなりました。

最期に残した言葉は、
「永遠の平和」
でした。

何度も死の淵に立ち、戦争の現実を知り尽くした人物が、最後に残した言葉が「勝利」でも「名誉」でもなく、「永遠の平和」だったのです。

そこに、彼が生涯を通して貫いた、ひとつの答えがあるように思えます。

歴史は、答えだけを受け取るものではありません。
鈴木貫太郎の生涯から、私たちが本当に受け取るべきものは、「問い」にあると私は思います。

国が熱狂に包まれたとき、冷静な言葉を誰が発するのか。
情報が不十分なとき、何を根拠に決断するのか。
敵とされた人々を、人間として見ることができるか。
自分の正義が、最後にどのような未来を生むのか。
制度も世論も機能しなくなったとき、誰が責任を引き受けるのか。
そして、自分の立場を失ってでも、命を守る出口を選べるのか。

終戦前夜の歴史を伝える意味は、誰かを記号化し、悪者にすることではありません。
あの時代に起きたことを、現在の私たちの問いへと変換することではないかと思います。

歴史のなかで失われた命を、ただ数字として記憶するのではいけない。
失われた命が、私たちに何を問いかけているのかを考えることが大事だと思うのです。

言葉は、歴史を動かします。
報道も、政治も、世論も、人と人とのRelationのなかで生まれます。
だからこそ、私たちは問わなければならないと思うのです。

この言葉の先に、どのような出口があるのか。
最後に、誰の笑顔を残そうとしているのか。

その問いを持ち続けることこそが、終戦前夜を生きた人々から、いまを生きる私たちへ託された宿題なのだと思います。

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